疲弊とゾンビとお庭の話
南島です。
この1か月はアウトプットの機会が多く、さすがに疲弊してきている今日のこの頃です。睡眠時間は6時間ほどは確保してるのですが、なぜかいつも瞼が重いです。じっくり本を読んだり、調べ物をしたりしたいと頭では想像するのですが、現実そんな時間はなく、ひたすら通りすぎていく情報に反応し、打ち返していると一週間があっという間に終わっていきます。
先日、テレビの撮影があったのですが、収録中も精神のない人工知能というのか、昔、そういうAIのモデルを哲学的ゾンビと呼ぶと聞いたことがありますが、まさに和やかに話すゾンビとして、ぼくはカメラの前にいたような気がします。ゾンビとヒューマンの違いを分かる人がどれほどいるのかは分かりませんが。。いやもともと人は哲学的ゾンビなのかもしれません。だから、発想は逆に展開するべきでしょうか。哲学的ゾンビの人間がなぜ人間らしい精神をもったように見えるのだろうかと。よく通勤ラッシュの品川駅のロータリーを歩く大量のホワイトカラーの群衆を「ゾンビ」と揶揄して、日本的な労働環境や慣習が嘲笑のネタになっていますが、ここでは「群れ」に埋没した人間がゾンビ的だと言われています。群れに埋没した人間がゾンビだとすれば、その群れを離れる瞬間に、ひとはそのゾンビを「人間的」だと感じるのかもしれません。群れになったら、だれしもがゾンビになってしまうのです。SNSとはまさにそうした装置ですね。